2026年5月25日
前回の記事では、米国連邦政府が社会給付制度の受給資格をコード化し、各州がAPI経由でシステムに実装する構想を取り上げました。この構想は、州の権限や運用責任という連邦制特有の壁に直面し、公式な制度ルールをAPI連携で州に配布する仕組みとしては実現しませんでした。
一方で、その後、給付対象になり得るかを簡易判定するツールのコードはオープンソース(OSS)化され、民間でも再利用されることになりました。
実は日本でも、年金制度に基づいて作られたシミュレーターのプログラム(コード)をオープンに提供し、民間サービスに活用する構想が検討されたことがあります。
公的年金シミュレーターとは
厚生労働省の「公的年金シミュレーター」(シミュレーター)は、将来の年金額の目安を、スマートフォンやPCから簡単に試算できるオンラインサービスです。
2021年6月に閣議決定された、政府の「デジタル社会の実現に向けた重点計画」に、
国民が生活設計をより具体的にイメージできるようにするための「年金簡易試算Web」として盛り込まれ、2022年4月から運用が始まりました。
2022年から2023年にかけて、厚労省は、シミュレーターのコードを将来的にOSSやAPIで提供することも視野に運用実験を行いました。民間の自動家計簿アプリなどにシミュレーターのコードを組み込んでもらうことで、公的年金の試算機能が、より多様な生活設計サービスの中で使われることを期待してのことです。
しかし、完全なオープン化にはさまざまな課題があり、最終的に、利用規約への同意、事前打合せ、申請を経た事業者に提供するという再利用の仕組みに落ち着きました。
実際にどのような課題が論点となったのか、公開資料から見ていきたいと思います。
1,000万回以上使われた年金シミュレーションアプリ
厚労省のシミュレーターは個人情報の入力やログインが不要で、数ステップで年金の試算ができるという使いやすさに加え、毎年郵送される「ねんきん定期便」にアクセス用の二次元コードが掲載されることなども後押しとなり、実際に試算が行われた回数は2026年2月末時点で1,168万回を超えました。
今年4月からは、機能を拡充した「次期公的年金シミュレーター」の試験運用も始まりました。新システムでは、老齢年金に加えて、障害年金やiDeCo(私的年金)も対象に加わっています。
ねんきんネットとの明確な役割分担
年金額を試算するサービスには、日本年金機構の「ねんきんネット」もあります。
こちらは、24時間いつでも詳細な年金記録を確認したり、より正確な試算を行うオンラインサービスです。
詳細な計算は、ねんきんネットで行えばよい。だからこそ、シミュレーターは、
あえて入力項目を絞り、利用者が最後までたどり着きやすい仕組みにしています。
外部提供が検討されるのは、この「ざっくり計算」を行うためのコードです。
制度をコードにするときの解釈
さて、日本の年金制度は、法律、政省令、通知などによって定められ、公表されています。これを、システム上で動くプログラム、つまりコードにする場合、条件分岐や細かな調整など、いわばマイクロチョイスともいうべき「解釈の選択」が避けられません。
特にこのシミュレーターでは、複雑な年金制度を「ざっくり計算のアプリ」へと落とし込むにあたり、ユーザー離脱を防ぐための合理的な単純化や、特例措置の除外などが多数組み込まれています。
公式サイトでは、「公的年金シミュレーターの利用に当たってのご留意事項」として、
どのような解釈の選択が行われたかを具体的に説明しています。たとえば、次のようなものです。
老齢年金:年収の85%を給与、15%を賞与に「機械的に振り分け」て計算しており、
実際の年金制度の仕組みとは異なる、など
障害年金(2026年追加):保険料納付状況(未納がないか)の厳密な判定は行わず、
1級〜3級に該当した場合の試算額の目安を表示する、など
iDeCo(2026年追加):受取時の税制優遇については反映していない、など
これらは、一般の利用者に試算の前提を伝える大切な情報です。一方で、ここで示されているのはあくまで文章による説明で、実際にどの条件がどのように計算ロジックとして使われているのかまで追えるものではありません。
議事録に残された貴重な記録
厚労省年金広報検討会の議事録からは、「公的年金シミュレーターのプログラム(コード)を将来的にオープンソース化することを目的として、民間事業者にシミュレーターのソースコードを公開※し、改変してもらい自社アプリに取り込めるようにすること」を目指していたことがわかります。(※議事録原文では「更改」と記載)
OSS化とAPI連携の2案が検討されましたが、API連携についてはサーバー開発等の長期的な作業が必要となるということで、まずはOSS化が検討されることになりました。
OSS化は、民間企業が国のコードを活用できる一方で、自社サービスに組み込んだ後の試算結果の正確性を、民間企業自らが検証し続ける責任を負うことでもあります。
年金額は毎年改定され、制度も複雑です。厚労省にとっても、誤った試算結果が利用者に示されるリスクは懸念材料だったと考えられます。
また、年金という公的制度を扱う以上、国と民間の責任をどこで分けるのか、誤った
試算結果が利用者に混乱を与えないかといった点も論点になっていました。議事録と配付資料から、主な論点を抜粋・整理します。
1. ソースコード提供(OSS化)について
- 頻繁に行われるアップデートへの対応を含め、シミュレーターのソースコードを
適切に実装できるか - 民間アプリでソースコードを再現しシミュレーションを構築した場合、民間事業者側が試算結果の正確性を検証する必要がある
- 民間事業者でソースコードを改編して民間アプリに掲載し、適切な試算結果を表示することができるか
2. API連携について
- 公的年金シミュレーターはID・パスワードを使用しておらず、情報セキュリティ上の問題が生じないか
- ブラウザ上で全ての試算を行う公的年金シミュレーターの特性に応じた連携が
可能か - API連携等による民間アプリとの連携については、サーバー開発等の長期的な作業を必要とする
3. 運営・管理面共通
- 責任分界点の明確化
- 連携するに際して事前審査・届出等を求めるか
- 世の中にいろいろな試算があるとすると、本当に正しい試算なのかという混乱が
起きてもいけない - 民間のアプリについて、厚労省が何らかの認証を与えるのか
運用実験で見えた手応えと最終決定
コードを使った運用実験に参加した企業のうち、10社がプログラムの構造・内容を解析でき、6社がアプリ等のITサービスに組み込むことができたと回答しています。プログラムが解析できなかったと回答した会社も1社ありました。
さらに、公的年金シミュレーターの機能を搭載したアプリ等のリリースについては、
4社が「予定」または「前向きに検討中」と回答しました。
このように民間活用への確かな手応えが示された一方で、正確性の維持や責任分界点の壁は高く、厚生労働省の最終決定は、無条件の公開ではなく「条件付きの提供」となりました。
制度コードの再利用が投げかける問い
この事例は、コードがOSS化されたか、されなかったかというように単純化されるべきではありません。
制度をコードにすることは、単に法律や制度文書を、機械が読める形式に置き換えることではありません。それは、自然言語で書かれた制度を、実際に動くプログラムとして、計算し、結果を表示し、外部サービスに組み込めるものへと変えることです。
その過程では、必ず解釈や前提の置き方が問題になります。
「再利用できるコード」は「無料のコード」ではない
また、国からコードを無料で提供されるということは、民間企業にとってメリットに見えます。しかし現実には、民間企業側が「毎年改定される複雑な年金額や制度のアップデートに追従し、自社アプリに組み込んだ後の試算結果の正確性を、自らの責任とコストで検証し続けなければならない」ということを意味します。
厚労省としても、民間企業が自社サービスに取り込む際にコードを改変し、国の管理が直接及ばない形で試算機能が広がっていく、いわば「シャドウソフトウェア」化する状態は懸念材料でした。公的制度を扱う以上、たとえ免責事項を設けたとしても、間違った試算結果がもたらす社会的影響から国は完全に無関係でいることはできないからです。
今後、政策や制度がデジタルシステムに組み込まれ、行政サービスだけでなく民間サービスでも利用される機会はますます増えていくでしょう。そのとき、コードを誰が管理し、誰が更新し、どう再利用するのか。さらに言えば、どう検証するのか。
公的年金シミュレーターの事例は、こうした課題を考えるうえで貴重なケーススタディになるはずです。
参考資料
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